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クレージーキャッツ再考
桜井センリさんが亡くなった。86歳、大往生と言っていいと思う。
その昔、フランキー堺がスパイク・ジョーンズのコピーバンド、その名も本物と同じシティ・スリッカーズを結成した際、ピアノは桜井センリ、トロンボーンは谷啓、2代目のギターが植木等だった。
植木と谷啓によれば「桜井さんのギャラが0一つ違ってた!」とのこと。
多分、かなり弾ける存在だったんだろうなぁ。
その前には多忠修とゲイスターズにいたのだが、その前のピアノが龝吉敏子(アメリカで活躍)だった。
桜井がピアノのソロを弾くと、みんながずっと、じぃーと見るのだそうだ。
終わってから聞いたら、龝吉さんはガンガン弾くのでよく聞こえるのだが、桜井さんは小さい音で奏でるので弾いてないと思って見てたのだと。
よくクレージーのことを書いた文章に「高い演奏の技術力云々、、、」とあるが、私はいつもそのことが引っかかる。多分コミックバンドとしてはというのが前につくのだろうが、必ずしもそういうふうに書いた文章は少ない。
多分小林信彦あたりの書いたものか、大滝詠一、松任谷由美なんかが言ったに違いないのだが。
終戦後アメリカ軍が進駐するようになり、ジャズバンドの需要が急増、楽器を持っているだけでバンドマンといった時代もあったと聞く。
後年になっても浅草時代のたけしが急にサックスの席に座らせられたり、全く譜面が読めない私が、鴬谷のキャバレーの椅子に座ってしまったのもこの流れだ。
そのことから考えれば、クレージーの面々は上出来のバンドマンだと思うのだが。
クレージーが出来たひとつのきっかけが、モダンジャズの台頭であったことは興味深い。
ハナ肇はナベサダとかのグループと近いところにいて、実際モダンジャズにも足を突っ込んだらしい。元々南里文雄のバンドにいたこともあるので、そこそこの技術はあったと思うのだが、実際彼の性格からすればモダンジャズは随分難しく感じたのではないだろうか。事実そういう風なことを語っている。
そこで、もっとみんなに分かる楽しいバンドをということで、最後のクレージーメン犬塚弘の賛同を得て結成したのがハナ肇とキューバンキャッツ、その後のクレージーキャッツとなる。
植木が言っていた。「このバンド上手くいかないんだったら、またほかのバンドに移りゃあいいや。」と。あくまでも通常のバンドマンのごく普通の思想だ。
でもバンドは売れて、何度かやめようと思った谷啓も結局最後までいたし、全員楽器はほぼ外した活動だが、芸能人として生ききった。
これはひとえにハナ肇のリーダーシップであったと思う。植木は言う。「仕事を取って来たのは全部ハナだった。」と。
ハナ肇は植木等、石橋エータロー、桜井センリ、犬塚弘よりも年少である。フロントで吹く、谷啓と安田伸のみが後輩だ。
多分このリズムセクションに先輩を配したのが成功だったような気がする。ハナからみれば、みんな五月蠅い先輩だったと思うが。
植木等、石橋エータロー、安田伸とも自分のバンドを持っていた時期がある。
でもA級ではなかったと思う。
この中でいいバンドにいたのは、桜井センリのゲイスターズ、谷啓のシャープス&フラッツあたりだ。これは間違いなくA級だ。
ハナがいた浜口庫之助のアフロ・クバーノjr.というのもよくわからない。そのころ松岡直也はハナとはずっと一緒だったと語っている。
ということで、全員が高い演奏技術を持ち合わせていたわけではなく、東京のバンドマンからコメディアンになったにしてはまあまあ楽器が弾けたのだと思う。
それが本人たちにとって邪魔になる技術でもなく、ただ楽器をやらなくても食えるようになったということだろう。
高い演奏技術をもっていたからあのような音楽コントが出来たわけではないのだ。
ハナ肇がしっかりしていて、谷啓が素晴らしいアイディアを出し、青島幸男が素晴らしくくだらない台本や歌詞を書き、萩原哲晶がチンドン屋のようなオーケストレーションを譜面にし、すぎやまこういちがフジテレビのディレクターとして辣腕を奮い、秋元近史がシャボン玉をつくり、そして植木、犬塚、安田、石橋、桜井が演じきったからあのような事態となったのだ。
高い演奏技術ではない。人間が、素晴らしい人間の集団があったからだ。
ドリフの台頭で、ちょっと息切れしていた頃のクレージーが米沢にやって来た。
舞台は現在の米沢市体育館、緞帳が上がる。もちろん全員楽器を持っての登場だ。
テレビで見るよりも、ちょっと大人の粋なステージ、営業のネタとテレビは使い分けていた。私は小学3年か4年、面白かった。
楽器を持って何かやってみたいと思った。
そうか、あの日がその日だったんだ。
2012/11/16 20:13 (C) 珈琲豆屋です!
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桜井センリさんが亡くなった。86歳、大往生と言っていいと思う。
その昔、フランキー堺がスパイク・ジョーンズのコピーバンド、その名も本物と同じシティ・スリッカーズを結成した際、ピアノは桜井センリ、トロンボーンは谷啓、2代目のギターが植木等だった。
植木と谷啓によれば「桜井さんのギャラが0一つ違ってた!」とのこと。
多分、かなり弾ける存在だったんだろうなぁ。
その前には多忠修とゲイスターズにいたのだが、その前のピアノが龝吉敏子(アメリカで活躍)だった。
桜井がピアノのソロを弾くと、みんながずっと、じぃーと見るのだそうだ。
終わってから聞いたら、龝吉さんはガンガン弾くのでよく聞こえるのだが、桜井さんは小さい音で奏でるので弾いてないと思って見てたのだと。
よくクレージーのことを書いた文章に「高い演奏の技術力云々、、、」とあるが、私はいつもそのことが引っかかる。多分コミックバンドとしてはというのが前につくのだろうが、必ずしもそういうふうに書いた文章は少ない。
多分小林信彦あたりの書いたものか、大滝詠一、松任谷由美なんかが言ったに違いないのだが。
終戦後アメリカ軍が進駐するようになり、ジャズバンドの需要が急増、楽器を持っているだけでバンドマンといった時代もあったと聞く。
後年になっても浅草時代のたけしが急にサックスの席に座らせられたり、全く譜面が読めない私が、鴬谷のキャバレーの椅子に座ってしまったのもこの流れだ。
そのことから考えれば、クレージーの面々は上出来のバンドマンだと思うのだが。
クレージーが出来たひとつのきっかけが、モダンジャズの台頭であったことは興味深い。
ハナ肇はナベサダとかのグループと近いところにいて、実際モダンジャズにも足を突っ込んだらしい。元々南里文雄のバンドにいたこともあるので、そこそこの技術はあったと思うのだが、実際彼の性格からすればモダンジャズは随分難しく感じたのではないだろうか。事実そういう風なことを語っている。
そこで、もっとみんなに分かる楽しいバンドをということで、最後のクレージーメン犬塚弘の賛同を得て結成したのがハナ肇とキューバンキャッツ、その後のクレージーキャッツとなる。
植木が言っていた。「このバンド上手くいかないんだったら、またほかのバンドに移りゃあいいや。」と。あくまでも通常のバンドマンのごく普通の思想だ。
でもバンドは売れて、何度かやめようと思った谷啓も結局最後までいたし、全員楽器はほぼ外した活動だが、芸能人として生ききった。
これはひとえにハナ肇のリーダーシップであったと思う。植木は言う。「仕事を取って来たのは全部ハナだった。」と。
ハナ肇は植木等、石橋エータロー、桜井センリ、犬塚弘よりも年少である。フロントで吹く、谷啓と安田伸のみが後輩だ。
多分このリズムセクションに先輩を配したのが成功だったような気がする。ハナからみれば、みんな五月蠅い先輩だったと思うが。
植木等、石橋エータロー、安田伸とも自分のバンドを持っていた時期がある。
でもA級ではなかったと思う。
この中でいいバンドにいたのは、桜井センリのゲイスターズ、谷啓のシャープス&フラッツあたりだ。これは間違いなくA級だ。
ハナがいた浜口庫之助のアフロ・クバーノjr.というのもよくわからない。そのころ松岡直也はハナとはずっと一緒だったと語っている。
ということで、全員が高い演奏技術を持ち合わせていたわけではなく、東京のバンドマンからコメディアンになったにしてはまあまあ楽器が弾けたのだと思う。
それが本人たちにとって邪魔になる技術でもなく、ただ楽器をやらなくても食えるようになったということだろう。
高い演奏技術をもっていたからあのような音楽コントが出来たわけではないのだ。
ハナ肇がしっかりしていて、谷啓が素晴らしいアイディアを出し、青島幸男が素晴らしくくだらない台本や歌詞を書き、萩原哲晶がチンドン屋のようなオーケストレーションを譜面にし、すぎやまこういちがフジテレビのディレクターとして辣腕を奮い、秋元近史がシャボン玉をつくり、そして植木、犬塚、安田、石橋、桜井が演じきったからあのような事態となったのだ。
高い演奏技術ではない。人間が、素晴らしい人間の集団があったからだ。
ドリフの台頭で、ちょっと息切れしていた頃のクレージーが米沢にやって来た。
舞台は現在の米沢市体育館、緞帳が上がる。もちろん全員楽器を持っての登場だ。
テレビで見るよりも、ちょっと大人の粋なステージ、営業のネタとテレビは使い分けていた。私は小学3年か4年、面白かった。
楽器を持って何かやってみたいと思った。
そうか、あの日がその日だったんだ。