6月8日(日)まで伝国の杜の米沢市上杉博物館で「上杉家伝来絵図」という特別展が開催されている。メインは何と言っても安土桃山時代に製作された2枚の越後の絵図だ。
一枚は瀬波郡絵図で243×693cm、もう一枚は頸城郡絵図で340×580cmという大きなもので、会場のライトはかなり抑えられ、平壇の多分特注であろうアクリルケースに納められていた。
それらの二つの地図は越後、会津、米沢と移動しその後百年以上忘れ去られてきた。宝永4年(1707年)御小納戸にあった古い箱の中から発見、虫食いがひどく継ぎ目もはがれていたことから、それを見た五代藩主上杉吉憲が修復を命じたため平成の世まで持ちこたえたのだろう。
大きさが圧倒的迫力をもって自分の領地であることを訴えてくるのだが、五代藩主はまた越後に帰ることが出来るなどということを夢見ていたのだろうか。
他に享保10年の米沢城下絵図なども展示されていたが、今回は文化8年(1811年)の城下絵図が復刻発刊されたので、パンフとともに購入した。実は亡くなった父の情報で、この地図には石塚家が現在地にいることが分かるものだと知っていたのだ。早速見てみると、、、、、、この続きはまた明日書きます。
興味のある方は日曜日までなので是非!!
6月8日(日)まで伝国の杜の米沢市上杉博物館で「上杉家伝来絵図」という特別展が開催されている。メインは何と言っても安土桃山時代に製作された2枚の越後の絵図だ。
一枚は瀬波郡絵図で243×693cm、もう一枚は頸城郡絵図で340×580cmという大きなもので、会場のライトはかなり抑えられ、平壇の多分特注であろうアクリルケースに納められていた。
それらの二つの地図は越後、会津、米沢と移動しその後百年以上忘れ去られてきた。宝永4年(1707年)御小納戸にあった古い箱の中から発見、虫食いがひどく継ぎ目もはがれていたことから、それを見た五代藩主上杉吉憲が修復を命じたため平成の世まで持ちこたえたのだろう。
大きさが圧倒的迫力をもって自分の領地であることを訴えてくるのだが、五代藩主はまた越後に帰ることが出来るなどということを夢見ていたのだろうか。
他に享保10年の米沢城下絵図なども展示されていたが、今回は文化8年(1811年)の城下絵図が復刻発刊されたので、パンフとともに購入した。実は亡くなった父の情報で、この地図には石塚家が現在地にいることが分かるものだと知っていたのだ。早速見てみると、、、、、、この続きはまた明日書きます。
興味のある方は日曜日までなので是非!!