ということで、昨日の上杉家伝来絵図の続きなのだが。
うちの親父が平成6年に纏めた「石塚家代々名」という手書きの文書がある。多分寺の過去帳などから書き写したもので、一部間柄なども書いてある。一応元禄元年(1688年)に亡くなった石塚与兵ヱから現代まで25人の法号と没年、そしてその人の名前が書いてある。そして最後に
「文化八年(1811年)の地図で石塚家は現在地」
という一行で閉じられている。私はこの一行を疑いもせず、そういうことなんだと思い込んでいた。そしてその地図を見て吃驚である。今回公益財団法人 上杉文化振興財団が発行した地図には今の石塚家の土地のところには
石坂己子蔵
となっているのだ。丁度紙の折り目のところがその地図の我が家なので、かなり薄くなっている。見ようによっては「石塚」と見えないこともない。但し代々名によればその時代は武七郎が当主であり、己子蔵という名前は石塚家とは関係のない名前のように思える。
そこから35年下って弘化3年の御城下并原々屋敷割帳人命検索には
御扶持方 石塚武七郎 とともに
会所番 石坂そう次 という人が小国町にいる。
また文化8年から42年遡って明和6年の原方屋敷絵図には小国町でも今の場所から随分下の方(松川寄り)に石塚与右ヱ門がいる。代々名によればこの頃は利左ヱ門が当代であり、中々ぴったりとはいかぬ、我が家の歴史である。
ということで、昨日の上杉家伝来絵図の続きなのだが。
うちの親父が平成6年に纏めた「石塚家代々名」という手書きの文書がある。多分寺の過去帳などから書き写したもので、一部間柄なども書いてある。一応元禄元年(1688年)に亡くなった石塚与兵ヱから現代まで25人の法号と没年、そしてその人の名前が書いてある。そして最後に
「文化八年(1811年)の地図で石塚家は現在地」
という一行で閉じられている。私はこの一行を疑いもせず、そういうことなんだと思い込んでいた。そしてその地図を見て吃驚である。今回公益財団法人 上杉文化振興財団が発行した地図には今の石塚家の土地のところには
石坂己子蔵
となっているのだ。丁度紙の折り目のところがその地図の我が家なので、かなり薄くなっている。見ようによっては「石塚」と見えないこともない。但し代々名によればその時代は武七郎が当主であり、己子蔵という名前は石塚家とは関係のない名前のように思える。
そこから35年下って弘化3年の御城下并原々屋敷割帳人命検索には
御扶持方 石塚武七郎 とともに
会所番 石坂そう次 という人が小国町にいる。
また文化8年から42年遡って明和6年の原方屋敷絵図には小国町でも今の場所から随分下の方(松川寄り)に石塚与右ヱ門がいる。代々名によればこの頃は利左ヱ門が当代であり、中々ぴったりとはいかぬ、我が家の歴史である。