豆いち 

珈琲豆とうつわと絵葉書の店

関義臣という方を、

2010/12/23 19:29/関義臣という方を、
ご存知ですか。
私も分からなかったのですが、福井県越前市武生公会堂記念館にて本年10月1日から11月7日にかけて「坂本竜馬と関義臣」という企画展が開催されていたそうです。

この関義臣は福井藩士・山本五郎の3男に生まれる。藩校明道館に学び、幹事の橋本左内に認められて、文久2年(1862年)に昌平坂学問所に学んだ。1866年(慶応2年)、長崎の坂本龍馬を訪ねて亀山社中に加盟し、のちに海援隊に属した。1868年(明治元年)には、学問所で舎長を務めた、とあります。

で、写真の資料は米沢藩から米沢県に、そして置賜県なった時の明治6年8月から明治7年3月までの「御布告書集」です。明治政府から配布された公文書の綴りなのですが、文部卿 木戸孝允、内務卿 大久保利通、右大臣 岩倉具視、太政大臣 三條實美、工部卿 伊藤博文、大蔵卿 大隈重信、陸軍大輔 西郷臣道、大蔵大輔 井上馨、租税頭 陸奥宗光、などという名前がぞろぞろ書かれています。
将に「坂の上の雲」の時代といえましょう。番組は見ていませんが。

関義臣は明治6年5月29日に来県、明治7年9月に大蔵省に転任(米沢年表 米沢市史資料 第18号より)していますので、丁度その期間の文書です。
この年表は山形県が明治17年に編んだ「置賜県歴史」からこの辺の時代を拾ってきているので、それと呼応すると面白いかもしれません。

関は学問を好み、長崎に行った時、海援隊を組織していた坂本龍馬と意気投合しました。彼が意見書を見せると、龍馬は破顔一笑して「北国の奇男子、徹頭徹尾、我と同意見なり。爾後我に一臂の力を添えよ」と言い、海援隊の客員となったそうです。
そんな人が1年一寸とはいえ米沢にいたのですねぇ。
2010/12/23 19:29 (C) 珈琲豆屋です!

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