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1938〜1996

第47代横綱。

本名富樫剛。東田川郡山添村(現在の櫛引町)桂荒俣に農業富樫元雄、かつゑの二男として出生。

昭和29年鶴岡南高等学校定時制を中退して、伊勢ノ海部屋に入門。蔵前国技館が正式に開館した同年秋場所に、本名を四股名として初土俵を踏む。順調に昇進して、幕下、十両で各一回優勝。

33年秋場所には、19歳で新入幕を果たした。翌34年3月に、伊勢ノ海部屋ゆかりの四股名第11代「柏戸」を襲名、前頭13枚目で13勝2敗の成績を挙げ、敢闘・技能の両賞を受賞した。強烈な突っ張りと鋭い出足の、スピード感あふれる相撲ぶりから、“角界のサラブレット”といわれた。

同年11月に小結に昇進。35年初場所、新入幕で初日から11連勝の大鵬と初対決し、下手出し投げに破った一番が、以後10年間の「柏鵬時代」の幕開けとなった。同年3月関脇、同年9月大関と昇進し、翌36年初場所13勝2敗で幕内初優勝。36年9月場所に12勝を挙げると同年11月、22歳9ヵ月の若さで終生のライバルと称される大鵬とともに第47代横綱となった。

守りの相撲の大鵬に対し、攻め一筋の豪快な取り口が対照的で、柏戸の相撲を「剛」、大鵬を「柔」と形容して相撲人気を二分した。

しかし、横綱昇進後、腕や肩のケガや糖尿病などの病気に泣かされた。休場が多く、勝ち星では大鵬に水をあけられたものの、人気は衰えなかった。2場所連続全休明けの38年秋場所千秋楽、横綱同志が全勝優勝をかけて対戦し、大鵬を寄り切った一番は、大相撲史上に残る勝負となった。

優勝5回、殊勲賞2回、敢闘賞2回、技能賞4回の成績を残し、44年名古屋場所を最後に現役を引退した。

幕内在位66場所(うち横綱47場所)の通算成績は、 599勝 240敗 140休場、勝率0.714。 引退後は年寄「鏡山」と襲名。

45年、鏡山部屋を創設し後進の指導に当り、県出身の小沼、蔵王錦、多賀竜、起利錦などの多くの力士を育てた。

また、相撲協会の理事として57年から平成6年まで審判部長を努めたほか監査副委員長、指導普及部副部長等の重責を果たした。

平成8年12月8日、肝不全のため入院先の順天堂病院で死去、58歳。
平成6年5月、櫛引町第1号名誉町民。
平成8年、従五位勲四等旭日小綬章。
平成9年、第1号山形県県民栄誉章を受賞。

古今大相撲力士事典より引用


得意手 突っ張り、右四つ、寄り 身長 体重 188cm 139kg

通算 66場所 599勝240敗140休 優5同2次13殊2敢2技4


昭和39年11月 東張横  2勝 4敗 9休(急性糖尿病・肝機能障害・左肩胛骨脱臼)
昭和40年 1月 西横綱 15休    (同上)
昭和40年 3月 西張横 15休    (同上)
昭和40年 5月 西張横  9勝 6敗
昭和40年 7月 東張横 12勝 3敗 次
昭和40年 9月 東張横 12勝 3敗 優
昭和40年11月 西横綱  1勝 1敗13休(左足首関節捻挫)
昭和41年 1月 西張横 14勝 1敗 優
昭和41年 3月 東横綱 10勝 5敗
昭和41年 5月 西横綱 12勝 3敗 次
昭和41年 7月 西横大 12勝 3敗 次
昭和41年 9月 西横綱 13勝 2敗 同
昭和41年11月 西横綱 10勝 5敗
昭和42年 1月 西横綱 12勝 3敗
昭和42年 3月 東張横 11勝 4敗
昭和42年 5月 西横綱 13勝 2敗 次
昭和42年 7月 西横綱 14勝 1敗 優
昭和42年 9月 東横綱  9勝 6敗
昭和42年11月 東張横 11勝 4敗 次
昭和43年 1月 東張横  9勝 6敗
昭和43年 3月 西横綱  9勝 6敗
昭和43年 5月 東横綱  4勝 4敗 7休(右肩胛骨挫傷)
昭和43年 7月 東横綱 10勝 5敗
昭和43年 9月 東横綱  9勝 6敗
昭和43年11月 西横綱 11勝 4敗
昭和44年 1月 西横綱 10勝 5敗
昭和44年 3月 西横綱  9勝 6敗
昭和44年 5月 東横綱  9勝 6敗
昭和44年 7月 西横綱  1勝 3敗  (引退)



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